2011-04-05

HANAO CAFEの店長より

私が経営しているハワイアンスタイルのカフェ、HANAO CAFE。
店長は、今回の震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町出身です。

彼は、震災後緊急車両の許可証をもらって女川に入りました。偶然にも彼の親戚は全員無事だったそうです。その時の情景と感想を紹介します。


21日に警察署で緊急車両許可証を交付してもらい、東北道をひた走り22日朝に石巻に入る。

三陸自動車道を下りて石巻市街地に入った途端、すでに津波の爪後が色濃く残っていた。

北上川の運河から平野部にかけては、浸水している所もあったが建物はほとんど無事。ところが、運河を石巻港寄りに渡ると、そこはもう街並みはなくなり、瓦礫の山。つい さっきまで走っていたと思われる車が折り重なるように積まれている。

テレビ等の映像でも見られた光景。が、実際に目の当たりにすると、報道関係者には申し訳ないが、全てを語っていない気がする。

叔父、叔母が避難している「石巻市立蛇田小学校」に物資を届けた。叔父も叔母も元気でいてくれて本当に良かった。

叔父は地震が発生した時、港のそばの職場にいた。叔父は当時の様子を語ってくれた。

建物が揺れてすぐに大津波警報を聞いた。職場の2階に避難したが、そこで津波に巻き込まれ流された。偶然にも浮かび上がった所に畳があり、必死にそれにしがみついて水が引くのを待ちつづけた。ようやく水が引いたものの、建物に孤立。一晩、薪を焚いて救助を待った。

蛇田小学校にいる避難者は100名あまり。体育館に布団を敷き詰めて生活をしている。ほぼ全ての人が家を無くし、ここでの避難生活を送り、先の見えない現実と向き合っている。

そして物資の援助の少なさ、欲しい物がピンポイントで届かない現実。食事は朝夕の2食で、少ない時はアンパンとバナナのみ。

報道では日本全国から、さらには海外からも大量の物資が送られているとのこと。が、避難所間の格差は想像以上だ。

その後、運よく津波の影響が少なかった叔父の家へ。避難所にいる方は避難所での物資を直接もらえるが、叔父のように自宅に帰った人は、ライフラインが全て止まっているにもかかわらず物資援助がもらえない。石巻市内でこのような生活を送っている方が2600名ほどいるそうだ。

石巻市内を後にして、女川町に車を走らせた。
普段なら石巻~女川間は太平洋を右手に、万石浦という湖のようなきれいな湾を見ながら走れる絶好のドライブコース。しかし現在は津波の被害で見る影もない。

浦宿、沢田を過ぎて女川に入った時、正直自分の目の前に広がる光景をみて言葉が出なかった。涙すら出なかった。

CGかそれともどこか違う世界に来たのか。僕が生まれた街は、そこにはなかった。

映像では伝わらない、違う何かが確実に存在している、そう考えるほか無かった。

ただただ何も無くなった街並み。どうしたらこんなことになるんだろう。

何があったらこんなにも何も無い世界になるんだろう。

一瞬で全てを無にした津波とは何なんだろう。

女川町を襲った津波の高さは、最大で25mだそうだ。4階建てのビルの屋上にひっくり返った車がある。

「女川高校」に行き叔父、叔母、従兄弟を尋ねた。全員無事。僕の親戚は奇跡的に全員無事だった。

女川高校には約70名の避難者がいて、体育館が地震で使えなくて武道場で生活。漁業関係者が多く、みんなで食料を持ち寄って自活していた。そこから市街地を歩いて「女川第2小学校」「女川総合体育館」へ。
各避難所には合わせて2000名ほどが避難していた。暖房設備も満足に無く、底冷えのするこの場所では高齢者の方にはかなり厳しい環境だ。

過酷な環境の中でも心が和む瞬間が幾つかあった。それは、子供たちが逞しく元気であったこと。
大人たちが疲労している中、元気に駆けまわっていた光景が目に焼きついている。

僕は戦争を知らない、戦争がどういうものかも知らない。でも被災地で出合った、戦争を経験したおじいさんが僕にこう言った。

「戦争でもここまでなくならなかったよ、何もここまで・・・」

それでも、話しているときに子供に抱きつかれると

「この子らが学校さ行くころには、なんとかなんねがね」

そう言いながら煙草を1本差し出して笑っていた。


生きていること、家があること、食べるものがあること、それだけで幸せだということを忘れないで。お亡くなりになった方には心から哀悼の意を捧げます。今を生きている方、僕たちに出来ることは数少ないかもしれませんが共に生きましょう。1日も早い復興を心の底から祈っています。